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禅者が「念仏とは何か」を語る

どうも~、幸せ天使です。
9月に入り、朝晩は少し過ごしやすくなって
きました。

さて、今日は鈴木大拙さんの講演CDである、
「禅者のことば」について書きたいと思います。
このCDは6枚セットになっており、非常にボリュ
ームがあり、内容も素晴らしいです。

そしてお値段の方もなかなかのボリューム(?)
になっているので、私は図書館で借りて聴きま
した(^^;)

鈴木大拙さんは、英語が堪能であり、外国の
方に「禅(ZEN」を広めるのに非常に貢献されま
した。

このCD6枚組みの中に、「念仏とは何か」という
タイトルで1枚のCDがあります。この講演の内容
は、欧米の宗教観にも詳しい鈴木大拙さんの
キリスト教と仏教の成り立ちや考え方の違いから
始まって、念仏とは何かということを解説されてい
ます。この内容を私なりに解釈したものを書きたい
と思います。

以前「南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の意味
というタイトルで書きましたが、今回はさらに深
い内容になっています。

まず、キリスト教と仏教の基本的な考え方の違い
として、神(仏)と人間との関係について語られて
います。キリスト教は1神教であり、神と人間は
主従の関係にあると言われています。

これは、神というものが命令を下し、その命令を
守らなければ罰するという律法に基づく考えです。
そして、全ての人には原罪があるとしています。
ただし、愛の人キリストが全ての人の罪を背負っ
て十字架にかけられ、復活したのでキリストを
信仰し、祈りをささげれば全ての罪は許されて
本来の愛に溢れる自由な人になることができま
すよということです。

キリスト教では、神は神、人は人ということで、
その祈りは神に対してお願いをするものという
ことになります。

それに対して、仏教では因果応報、自業自得と
言われています。この因果応報と自業自得は、
悪いことをすれば悪いことが自分に起こるという
意味合いで使われることが多いですが、良いこ
とをすれば良い結果が起こるという意味でもあ
ります。そもそも禅や仏教の考えでは、善悪や
正否という二元論の考えがなく、全てがその
「あるがまま」ということですので、ただ自分の
したことが原因となってその結果が自分に起こ
るということです。

浄土信仰では、自分以外の力(仏の力)を他力
と言って、この他力を使って本願成就すること
を目指して、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えます。

他力本願というと、キリスト教式にいうと祈りに
よって仏様にお願いをしているようですが、因果
応報、自業自得の観点からいうと、そうではなく、
「南無阿弥陀仏」と唱えることで仏そのものになる
ということだそうです。まさにこれが念仏とは何か
ということです。

浄土真宗を出家ではなく在家で深く信仰し、念仏
を唱える一生を送った人を「妙好人(みょうこうにん)」
と言うのですが、その「妙好人」の浅原才一という
方の歌(のようなもの)が念仏の本質をよくあらわし
ているということで、紹介されていました。

他力には 自力もなし 他力もなし ただ一面の他力なり 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏


自力もなく、他力もないのに、一面の(全ての)他力で
あるというのが、おもしろいですね。この一面の他力
こそが、南無阿弥陀仏そのものだということです。

また、一遍上人の歌も紹介されていました。一遍上人
は教科書でも出てきたので、ご存知の方も多いかと
思います。一遍上人が修行をしていて、「念仏の本質
がわかった」と言って、歌にして師匠に伝えます。

唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏の声のみぞして

しかし、師匠にこのままでは不十分であり、念仏の本質は
会得していないと言われてしまいます。その後さらに修行
に励み、ついに次の歌を残して師匠に認められます。

唱うれば仏も我も無かりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

ただ南無阿弥陀仏を唱えて声のみがするのではなく、南無
阿弥陀仏そのものになる必要があるのだということです。
これは名と実が同じであるということです。

私は特に信仰が厚い方ではなく、念仏を唱えたりすること
はありませんが、「自力もなし他力もなし」という考えは
新鮮で、自分の力を超えた何かを成し遂げるために必要で
あり、しかもこの考えをもっていれば成し遂げた時にも謙虚
な気持ちでいられるのだと思います。

普段の生活で宗教の話をすると敬遠されがちですし、私も
誰かがしだすと、あきらかに嫌な顔をすると思います(笑)。
しかし、知ってみると結構おもしろかったり役に立ったり
するものだなという感じですね。

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COMMENT

どーも こんにちは

ヤッズ★です。

今日の内容は、とっても深いですね。

念仏を唱える場合は、「自力もなし、他力もなし」の境地、つまり、念仏を唱える自己すら認識できず、完全に自己を滅却し、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏というマントラそのものに成り切った境地まで到達しないとならない、ということなのですね。

少し前、ヤッズ★は「ラーマ・クリシュナ」の記事で、「ブラフマン(梵天)との合一を知るためには、アートマン(自我)を捨てる以外にその方法はなく、少しでも「我」意識が残っていると、ブラフマンは決してその実相を現さない。」と書きました。

何か、このことと符合していませんか(笑)?

念仏を唱えることの源流は、ヨガにあるのではないでしょうか。
(仏教自体、インド発祥ですから…)

ヤッズ★は、かつてTM瞑想を学んだことがありますが、ある音(マントラ)を与えられ、それをひたすら心の中で唱え続けることで、より深く内面に入っていき、最終的には、マントラ自体聞こえず、マントラ自体になってしまいます。その時、自他の合一の境地が体験できるそうです。(残念ながら、ヤッズ★はそこまで体験できてないです。)

いつも、大変示唆に富む内容を掲載して頂き、感謝いたします。

ヤッズ★さんへ

どうも~、幸せ天使です。

いつもありがとうございます。

>南無阿弥陀仏というマントラそのものに成り切った
>境地まで到達しないとならない

これはまさにその通りだと思います。鈴木大拙さんも、
阿弥陀仏になるのではなく、南無阿弥陀仏そのものになる
のだと言われていました。

しかし、南無と阿弥陀仏を切り離せないのが人間だとも言われて
います。

TM瞑想を学ばれたことがあるんですね~。インドはとにかく
奥が深いですね(^o^)

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